ごめんなさい

ブログを始めてまだ一月しか経っていませんが更新を一時中断いたします。大学生活が忙しいのも原因の一つですが、さらに主な原因は 「最近、哲学が出来ていないこと」です。哲学できないことの理由は簡単です。それは、毎日が楽しいから。このように書くと反発する人もいると思いますが、逆に考えれば、今何か苦しいことにぶつかっている人たちは哲学するチャンス、つまり自分自身で物事を考え、それを現実世界に還元する機会をえている、ということになります。今ぶち当たっている困難は確かに苦しいでしょう。もしかすると一生越えられない壁かもしれません。でもそんな時こそ、隣で楽そうに人生を送っている人々を妬むのではなく、その苦しみをチャンスと考えさらなる高みを目指していってほしいのです。(もちろん、死ぬほど苦しいときは逃げるのもアリです)そして、その過程で得た知識や能力を生かして、自らの楽しい人生を切り開くなり、壁にぶち当たっている人々を救ってあげるのなりしてください。いまの苦しみと葛藤こそが、未来のあなた今の世界を作り上げているのです。

あと、勉強コーナーに関しては回答可能な質問にだけ答えようと思います。なぜなら、僕が自分の熱意を不特定多数の人に伝播させるほどの文章力を持ち合わせていないからです。勉強は一人で行うものです。ですから、どんなにスキルを教えても、その人のココロを動かさなければ、授業は自己満足に終わってしまいます。要するに勉強を教える、と言うことは教師が生徒を愛し、生徒が教師を愛さなければ成り立たないのです。そのことに気づいてしまうと、WEB上で不特定多数の人に対して教鞭を取ろうなどと考えるのはおこがましいことだと思わずにはいられないのです。しかし、それでも見知らぬ僕を頼ってくれる人がいるなら、可能な限り手助けしたいと思っています。

以上の理由より、読者の皆様、そして紙月さまには誠に申し訳ないのですが、ブログの更新を一時中断させていただこうと思います。身勝手な都合だと思われるでしょうがご容赦下さい。ではまた、無性にブログが書きたくなるその日まで。(とは言っても明日にはその気になるかもしれませんがね⋯)

ご無沙汰しています。

大学入学から一週間がたち、ようやく自分の時間をゲットできました。大学って意外と忙しいんですね⋯

さて、今回のネタは「勉強の仕方」です。「哲学カンケーないじゃん」と思うでしょうが、その通りです(笑)でも、勉強の仕方のついても前々から言いたいことがあったので、せっかくですからこの場を借りて発信していきたいと思います。(この話はシリーズものになりそう⋯)

とりあえず、今は目次だけ作成します。気が向いたら更新します。もし、質問があれば、コメントにでも残しておいてください。同じような質問が多ければ返信します。

↓とりあえず目次

1 ノートの取り方

2 暗記の仕方

3 計画の立て方

4 間違いノートを作ろう、質問をバンバンしよう

 

4はもう、答え出ちゃってますね⋯ とりあえず、次回のブログが続きになるかどうかは分かりません。その日の気分次第です。

 

 

いじめ問題に対する一つの意見

僕が社会に向けて一番発信したいことの一つに「どうすればイジメ問題を解決できるか」ということがあります。僕は昔いじめられていた、と言うのは先日も書きましたがそういう立場にいると、今の世論に対して疑問を覚えることは少なくありません。当たり障りのないことを言えば、自分の身は守られるでしょうが今起こっているイジメを減らすことは出来ないのです。そこで、先に言っておきますが僕の意見は恐らく一部の人を不快にさせるでしょう。なので、ここから先は自己責任で読んでください。

イジメをなくす方法は一つです。それは「すべての原因を見つけ出すこと」です。「当たり前」と思う人も大勢いるでしょうがこれがなかなか難しいのです。何故なら、加害者側が全ての原因ではないことがあるからです。実体験をもとに話しますと、一度担任にいじめの相談をした時、彼から「お前にも原因があるのではないか」と言われたことがあります。その時は相当ショックでした。自分は担任からも見放されたのか、と思いました。しかし、今振り返ればあの頃の自分は傲慢で自己中心的な人間でした。うまくいかないのをすべて人のせいにして、自分よりも弱いものを見つけては無意味に暴力をふるっていた(と、言っても本当に弱かったですから、周りは幼稚園児かアリの喧嘩程度にしか思っていなかったでしょう。)ゴミみたいな人間でした。正直、いじめられて当然だと思います。しかし、ある時自分を振り返る機会に見舞われその事実に気が付きました。自分が見えていた世界はこんなにも狭くて汚かったのかと。それから、僕はなるべく相手のことを考えるようにしました。「ここで、こう言ったら相手が傷つくだろう」とか「自分がこれをされたらいやだな」とかいう風にして、相手の立場や心情を考えるようになりました。その後は、ちょっとづつですが学校内での人権を取り戻し始めました。つまりここでの原因は「自らの傲慢さ」だったわけです。

そう言う、「いじめの原因」は人それぞれです。場合によっては相手側が完全に悪い、と言うこともあるでしょう。しかし、そういう風に思い込んではいけません。常に相手と自分の非について考え、何が原因なのかを探り当てる必要があります。この時に必要なのは信頼できる相談相手です。自分のことをよく知り、比較的公平な立場で意見をくれる人。そういう人がいれば相手の何が悪いのか、そして自分はどう変わればいいかがわかります。そして、どうしてもだめだと思った時は逃げましょう。これが一番手っ取り早くて、かつ難しい方法です。家出をするのには相当な勇気が要ります。しかし、死ぬよりはましです。親戚の家や、親戚が信頼できないならば警察に逃げましょう。決して「死」という安易な手段を取らないでください。そしてそのまま転校するのが最高の方法でしょう。しかし、転校する際に必要なことが二つあります。一つはイジメの原因を明確にしておくこと。もし、少しでも自分自身の問題点をほったらかしにしていれば、恐らく転校先でもいじめられるでしょう。そしてもう一つは勉強をしっかりやる、ということです。学校のレベルが高いほどいじめはなくなります。もちろんそういう傾向であって全ての学校にあてはまるわけではないし、どの学校にも多かれ少なかれいじめはあります。しかし、優秀な生徒は比較的論理的に行動するので、完全に自分側に非があるようなイジメをする確率はかなり低くなります。(イジメても結果的に自分の不利益になることがわかっているので)さらに、編入試験も必要でしょうからその時にも勉学は必要になるでしょう。

さて、僕がいま心配していることは二つ。「被害者に対して厳しい発言に対するクレーム」「偏差値主義に対するクレーム」です。一つ目に対して意見を言うなら、僕は何も被害者を責めていません。ただ、自分を振り返ると、やはり問題点は自分にもあったなと言うことに気づかされ、同時にいまいじめにあっている人々が同じ過ち(自分には全く非がないと思い込むこと)を繰り返さないでほしいなと思っているに過ぎないのです。そして二つ目に対する意見ですが、勉強ができる=論理的な思考に優れると言うことだと僕は思います。少なくとも今の日本では。それを批判できる人は少ないのではないでしょうか。そしてイジメは、もしばれれば自分の身まで亡ぼすことになる、実に非論理的な行為です。よって彼らは、その人がイジメてでもそばにいてほしいほど迷惑な人物でない限りは、その人をいじめる可能性は低くなります。(もちろん、好き嫌いはあるので軽く無視されるなんてことはあるかもしれませんが)また、勉強していい学校に行き高い地位の職業につけば将来その人に仕返しできるかもしれません。これは裏技ですが。一般社会では「ペンは剣よりも強し」なのです。

最後に、「人の立場に立って考えるにはどうすればいいか」について教えます。(これができるようになれば、少なくとも自分に関する問題のほとんどが解決できるでしょう。それでもだめなら速攻で逃げましょう。三十六計逃げるに如かず、です。)それは、「たくさんの物語にふれること」です。つまり、物語の中のキャラクターの心情を推し量る練習をするのです。そして、もっとてっとりばやいのが「アニメを見ること」です。アニメは心情描写が少ないですから。もちろん、現実はアニメのようにうまくいかないことがほとんどです。しかし、たくさんの物語の中のキャラの心情は、確かに一人の人間(作者)が生み出したものに過ぎないのです。そうやって楽しみながらでいいですから、ちょっとずつ相手の気持ちを思いやる訓練をして相手がどんなことをしたら傷つき、喜ぶのかを常に考えながら謙虚に行動すれば、まあ何とかなるでしょう。それでもだめなら逃げましょう。もし行く当てがないならせめて僕のこのブログに一言書き込んでください。相談相手ぐらいにはなれますので。(でも、多すぎるとこっちも人間だし処理しきれないかな⋯)とにかく一人で悩まないでください。後、死ぬな。死んで迷惑のかかる人間のことを考えろ。自殺するようなわがままな奴のことは僕は同情しません。でもまあ、一件でもイジメが原因の自殺が減ることを祈って今日の書き込みをおわります。

人間とロボットの違い

 

近年、ロボットの発達は目まぐるしく様々な業界で活躍しているのはもちろんのこと、ロビやペッパーの登場で、家庭にもロボットが普及しつづけています。また、最近ではドローンが特に注目を集めていて、それに関するニュースを多く見かけるようになりました。

さて、先日(だいぶ昔ですが)とある番組で林先生(名前を聞いてじんましんが出たという人はごめんなさい)がこのような質問を受けていました。「人間とロボットの違いって何だと思いますか?」  この時、林先生は明確な答えを出しませんでしたが彼には彼なりの考え方があったのだろう、と僕は勝手に思っています。ところで、皆さんなら何と答えるでしょうか。たぶん一番多い回答は「感情、または個性を持っているかどうか」でしょう。たぶんそれが正解なんだと思います。では、感情や個性とは何から生まれてくるのかと聞かれると答えに詰まる人は多いのではないでしょうか?

ここで僕の回答を上げるとすると「矛盾を解決する力」です。

人間は多くの矛盾に押しつぶされて生きています。ここで具体例は挙げませんが「一つも思いつかない」と言う人はこのブログの読者の方々の中にはいらっしゃらないでしょう。矛盾は僕たちの頭を混乱に陥れ、それについて考えれば考えるほど絶対に解決できない問題に思えてくるのではないでしょうか。しかし、そこで立ち止まらないのが人間です。自分なりの折衷案をひねり出したり、どちらかをあきらめたりなどその方法は人それぞれです。

もう分かりましたよね? そうです。この矛盾を熟考し独自の答えを導き出すことが人間を人間足らしめている大きな要素の一つだと僕は考えているのです。現状、ロボットにはこれは不可能なはずです。もちろん、命令やプログラミングにも優劣がありますから、「片方をあきらめる」ことはできるかもしれません。しかしそれはもともと矛盾として成立していません。ロボットに「友情を大事にしなければいけない」と言うプログラムと「恋人を愛さなければいけない」というプログラミングがされていたとして、果たしてこのロボットは友人と恋人の三角関係を解決することができるでしょうか? それはたぶん不可能です(ただし、予め「愛情と友情とでは友情を優先せよ」と言うプログラミングがされていた場合、それは矛盾として扱いません)ここで人はどちらをとるか真剣に考えます。悩んで悩んで、遂に恋人をあきらめ友情を取ったとします。ここでその人には「友情を大切にする」と言う個性が生まれます。ここではまだまだ人間とは呼べません。しかし人間はまた新たな矛盾を発見しそれと格闘することになるでしょう。そうして個性は完成に近づいてゆくのです。

(しかしそうなると先ほどの記述で「先天的なプログラミングがある場合、それを個性として扱わない」としたのは間違いとなります。まあ、話を分かりやすくするためにそう言う条件にしたのですが。つまりロボットも、全ての矛盾に対する解決方法を予めプログラミングされていればロボットは「個性や感情は持たないが矛盾を解決できるもの」となり、僕の理論は崩れます。しかし、現実にはそれは不可能です。つまり僕の最初の説にには「現時点では」と言う但し書きが着くことになります)

つまり、僕がもっとも言いたいことは「自分を人間的に育むには矛盾に立ち向かうための知恵と根気が必要である」と言うことです。一見、解決の糸口が見えない問題も長い時間をかければ解決できるものがほとんどです(そして、解決できない問題のほとんどが数学的問題なのです。)目の前の壁に対して億劫にならずそれを「自分を成長させる試練だ」と思えるようになれ、とはよくいいますがなかなか実践できず、そこでつまずく人が多いのも事実なのです。そんな時、この話を思い出して少しでも新たな挑戦の手助けになればいいな、と思っています。

初ブログから炎上の危機!!(そもそもそんなに見ないか⋯)

友達に勧められてブログ始めました。ブログでは比較的真面目なことを書こうと思っています。

ところで僕が勝手に所属させてもらっているグループがあります。それは「ヲタクだって人間である」です。僕はこの名前を見た瞬間に参加を決めました。(主催者の方、初めてブログをするのでルールも作法も全くわからず、勝手に参加したことをお詫び申し上げます。)何故なら僕は「ヲタクに人権を」と言うのを人生の大きな目標の一つに掲げているからです。

僕は所謂「アニメオタク」です。アニメやラノベが好きで毎日のようにそういう系のコンテンツに触れています。「アニメオタク」に対する偏見はまだ無くなりません。アニメオタクだという理由で除け者にされる経験はしたことはありませんが「アニメオタクであること」=「欠点」と言う風潮は痛いほどに感じています。特に異性間では相手がアニメオタクでもない限り大きなマイナスポイントになることは明らかです。

しかし僕はアニメが人をダメにするものだとは思いません。私事ですが中学生の頃、いわゆる「イジメ」を受けていました。暴言や暴力は当たり前。死のうと思ったことは数知れず。「自分のがもっとつらい経験をしたぞ」と言う方も大勢いらっしゃるでしょうが絶望には重さも長さもありません。しかしそんな中で「オタク文化」に出会いました。 当時はそういう文化を何の根拠もなく、ただ「気持ち悪いから」と言って否定していました。しかし高校受験が無かった僕はふとライトノベルが原作の漫画に手を伸ばしました(この時は知りませんでしたが)。それからです。僕の状況は少しずつ変わり始めました。大きな転機なら他にもありました。しかし「オタク文化」と言う心の支えができてからは少しずつ気が楽になりました。当時を思えば些細な変化の積み重ねでした。しかし振り返ってみるとその変化は絶大なものでした。友達と呼べる人間がほぼゼロだった状況から生徒会選挙に立候補するほど(演説に多々問題があって惨敗しましたが。)にまで変わりました。アニメにであって以降、絶望の色に染まっていた僕の人生は本当に輝きだしたのです。その原動力の一番大きなものはやはり「友」でした。友達が増えるごとに僕の人生は豊かになりました。そしてそのきっかけの大半がいわゆる「オタク文化」でした。(もちろん、それ以外の趣味の人々とも友達になりましたが。)

つまり、僕はオタク文化に人生を救われたわけです。宗教じみている、と言われても否定しません。オタク文化は正に宗教だからです。しかし何が悪いのでしょう。宗教の一番の目的は「心の支えになること」です。決してお金儲けやテロではありません。もちろん宗教に加入する=心に何らかの不安を抱えている と言うことですから中にはそういう過激な集団がいても不思議ではありません。しかし、だからと言って何もしていない人の人権まで奪うのは決して正しい事ではありません。偽善などではなく「悪」そのものです。だからこそ僕はそういう類の悪と戦おうと決めたのです。(こういう厨二病的発想ができるようになったのもオタク文化のおかげです。)しかし同時に僕は他人を傷付ける気もありません。そういう風潮を撃破するための一番の策は暴力ではなく「言論」です。いかにオタク文化が素晴らしいかを説いて回り、いかにオタクが普通の人間であるかを自らの行動をもってしめす。それこそが、僕がオタク業界に対して可能な最大の恩返しなのです。

だからオタクの皆さんにお願いがあります。決してこの文化を貶めるようなことをしないで下さい。一人一人がこの文化の貴重な担い手であることをはっきり自覚して下さい。そうしないとこの風潮を拭い去ることはできません。私が出来ることは注意喚起だけです。皆さんの力でより良いオタク文化を作っていこうではありませんか。